日本アサヒ機工ものがたり

〜その2〜

昭和初期から終戦までのことを振り返ります。

昭和7年本店を浜松町3-3(現在地)に移し、昭和9年「個人会社アサヒ商會」から「合名会社アサヒ商會」と会社組織とし、昭和10年代の前半は第一期発展の時代でした。 昭和18年には「合名会社アサヒ総本店製作所」と改名し、組織の基礎固め、整備・拡大を行いました。迅速かつ誠意ある業務遂行がお客様に好評でした。 その後、戦争が激しくなって物資統制が厳しくなりましたが社業は発展を続けました。

日本アサヒ機工株式会社の会社情報〜日本アサヒ機工ものがたり

合名会社社名入りの封筒

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感謝状

封筒記載の製造・営業品目はドライクリーニングを主に洗濯機械、分離機、各種プレス機、糊付機、ベンジン蒸留機、石鹸類など関連機械・器具・洗剤とクリーニング関係全般に及びました。

「西洋洗濯」という言葉が登場しますが幕末から明治初期にかけて登場した言葉です。 洗い方は洋服、軍服、西洋風衣服を桶の中で水またはぬるま湯でソーダや石鹸を用いて洗い、被洗物をたたきつけたり、洗棒でたたいたりしました。必要により糊づけし火のしで仕上げました。 その後ドライクリーニングが登場し、これらも含め西洋洗濯と云いました。

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東京洗染材料商組合からの 感謝状

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カタログ(冊子)の表紙

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カタログ(冊子)の内容の一部

一方創業以来技術部を動員し、絶えず研究・改良を行い幾多の実用新案・特許を取得し、自社のみならず産業界に貢献し、アサヒの名声を宣伝されるに至りました。 自社の進展のみならずに同業組合の活動にも積極的に参画し、業界の発展に力を尽くしました。

更には洗濯機械のみならず、時代の趨勢でもある国産化著しい機械工業や化学工業向けの遠心分離器の開発・製造も行いかなりのか台数を納入しました。

昭和18年には改名と共に工場、陳列所を浜松町に移転・建設し事業の充実を図りました。

技術の蓄積、カタログの整備により販路も日本全国は勿論海外に納品し、内外に当社の評判を高めました。 しかし営業活動は交通機関や宿泊設備が現在のように便利でなく、一旦営業に出るとかなりの長期間にわたったようです。

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バンコクとの貿易関係書類入れと営業に用いたトランクと宿泊先のシール

やがて統制の時代になり価格上限値の制定、原材料不足や企業許可令やなどにより制約条件が増えてゆきました。
原材料、資機材の調達も重要な仕事でした。 お得意先は戦時下を反映して軍関係や軍需産業の工場が増えてきました。

昭和17年には国家総動員法に基づく企業許可令による報告が必要でした。 当社の石鹸製造に関する報告書と東京府知事の受領書が残されていますのでその画像を示します。

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昭和19年の手帳が残されており、19年から20年にかけての戦時下の営業活動状況や世相の一端をうかがい知ることが出来ます。
次回はこの手帳からいくつかの頁を紹介いたします。

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